2010年06月22日
「二百十日」と「野分」
銀行の入社試験の面接で、「尊敬する人物は?」の質問に、「白井道也」と応えた覚えがある。
東京会場での面接官は、3~4名いただろうか?
後に頭取となる人事部長、後の監査役、当時の東京支店長あたりだったかな~。
面接官全員「・・・・・・」、
一瞬間が空いたのを気使ったのか、
「お父さんでは無いのですか?」と、続けて質問を浴びせてきた。
「知らないのか~」と、少し落胆したものの、採用面接だし、できるだけ丁寧にゆっくりと質問に応えた。
「いいえ、夏目漱石の『野分』と言う作品に出てくる主人公の男の名です」
「同化は社会の要素に違ない。仏蘭西のタルドと云ふ学者は社会は模倣なりとさへ云ふた位だ。同化は大切かも知れぬ。其大切さ加減は道也と雖ども心得て居る。心得て居る所ではない。高等な教育を受けて、広義な社会観を有して居る彼は、凡俗以上に同化の功徳を認めてゐる。たゞ高いものに同化するか低いものに同化するかゞ問題である。此問題を解釈しないで徒らに同化するのは世の為めにならぬ。自分から云へば一分が立たぬ。」
「世が容れぬなら何故こちらから世に容れられやうとはせぬ? 世に容れられ様とする刹那に道也は奇麗に消滅して仕舞ふからである。道也は人格に於て流俗より高いと自信して居る。流俗より高ければ高い程、低いものゝ手を引いて、高い方へ導いてやるのが責任である。高いと知りながらも低きに就くのは、自から多年の教育を受けながら、此の教育の結果がもたらした財宝を床下に埋むる様なものである。自分の人格を他に及ぼさぬ以上は、折角に築き上げた人格は、築き上げぬ昔と同じく無功力で、築き上げた労力丈を徒費した訳になる。(中略)学問は綱渡りや皿廻しとは違ふ。芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上るのが目的である」
今思うと、こんな難しい表現の純文学によくも影響されたもんだと思う。
少なからず、そんな発言もしていたし、そんなサラリーマン生活をしていたように思う。
今は、そこまでの自惚れも強がりも無いとは思うが、資質の中には残っているかもしれない。
ついでに、文庫でセットになっていたもうひとつの作品「二百十日」の主人公の性格も紹介しておこう。
「圭さんは暢気にして頑固なる者、鷹揚でしかも賢くとって自説を変じない所が面白い余裕のある逼らない慷慨家」
10代からそんな奴になりたいと思い、30年余、そんな奴を目指しているのかもしれない。
採用面接の結果を面接官がどう捉えたかは不明だが、合格したことは間違いない。
そして中途退職は必然だったのかも・・・・?
良くも悪くも解釈できる。
ちと観念的過ぎたので、ソウルバラードでも聴いてみよう!
http://www.youtube.com/watch?v=aHa096VQ8FE&feature=related
Posted by takichi at 21:43│Comments(0)
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